この度、住友史料叢書「月報」への寄稿依頼をいただいたが、丁度その直前に江上剛氏著『住友を破壊した男伊庭貞剛伝』(PHP研究所、2019年)が出版された。そこでこの寄稿ではこの著作をベースに勉強がてら、住友中興の祖伊庭貞剛について、特に「禅」の視点から考察してみたい。
私事であるが、実は私は学生時代に禅に没頭したことがある。一橋大学では座禅部「如意団」に所属し、大学三年の時に井の頭池畔に建立された武蔵野般若道場の学生寮淡水寮に入寮し座禅づけの毎日を過ごし、社会人となった後も座禅を日々の習慣としてきた。故に『伊庭貞剛伝』において、貞剛が後に臨済宗天龍寺派管長となる天龍寺の峩山和尚こと橋本峩山を生涯の友として親交を深めたことなど、貞剛と禅の関わりが随所に描かれていることを大変興味深く感じた次第である。
貞剛には若い頃から禅の素養が備わっており、臨済禅の高僧、東嶺禅師の『宗門無尽燈論』にある「君子財を愛す、これを取るに道あり」の言葉を信条としていた。この言葉は現在でも住友の事業精神において最も重要な言葉の一つとして綿々と受け継がれている。
貞剛と橋本峩山は、峩山が雲水時代に天龍寺の托鉢先として貞剛の大阪の自宅を訪問したのが縁で、長年の友人関係となったようである。貞剛が別子銅山に赴任した時には峩山和尚が『臨済録』を渡すなど、その統治を助けたとされている。『臨済録』を私も手に入れてあらためて読んでみたが、これは臨済宗の開祖臨済が修行僧向けに書いた大変厳しい禅の問答集であり、これを座右の書としていた伊庭貞剛は、禅についての知識も並大抵のものでなかったように推察される。貞剛は四天流剣術の免許皆伝の腕というが、「剣禅一如」の言葉の通り禅についても相当の知識を持っていたと思われる。
『臨済録』において最も有名な言葉は「随所に主となれば、立処皆真なり」であり、江上氏は貞剛もこの言葉を座右の銘としていたという。この言葉は「その場その場で主人公となれ、そうすれば自分のいる場所が皆真実の場所になる」と訳されるのが一般的であるが、私はこの言葉にはもっと強い意志を感じる。「随所に主」という言葉に「自分の命を懸けるくらいの強さ」を込めているように感じる。そうすると、まさにこの言葉こそ伊庭貞剛の面目躍如だろう。
総理事広瀬宰平から乞われて大阪上等裁判所判事の職を辞し住友に入社し、翌年住友本店支配人に任じられた伊庭貞剛は、程なく別子銅山視察に出かける。しかし別子では、製錬所から出る亜硫酸ガスの煙害で苦しむ農民たちの暴動が起きており、新居浜、荘内など四村の農民総代が煙害被害を愛媛県に訴え出ていた。貞剛は、この苦境を目の当たりにし単身別子銅山に乗り込むことを決断する。敢えて火中の栗を拾う決断をしたわけである。入社間もない、しかも本店支配人として広瀬総理事に次ぐナンバー2が、燃え盛る火の中へ飛び込むという決断である。並大抵の人間に出来ることではない。
ここに峩山和尚が出てくる。別子に乗り込もうとする貞剛に和尚は、『臨済録』を渡し、読むべき所と読まなくてもよい所を区別してくれたという。その箇所は判然としないが、おそらく江上氏が書かれているように「信不及」という言葉を峩山は貞剛に贈ったのではないかと私も考える。これは「あなたが今日このように葛藤しているのは、「信」が足りないからだ」という意味である。和尚はこの言葉を贈って「己の中に答えがあり、己を信じ切ってことを進めればよい」と諌めている。
別子に臨んで貞剛が取った策は、まさに思い切ったものだった。まず第一は自分を取り立ててくれた広瀬宰平への辞任勧告である。独裁的な権限を手中にするようになった宰平に対しては、住友内部からも批判の声が起こり放置できない状況になっていた。第二に、枯れ果て伐採し尽くされていた「やま」を元に戻すこと、すなわち別子銅山が所有あるいは借用していた広大な山林の植林による森林資源の回復である。そして第三に、瀬戸内海に浮かぶ小島、四阪島への製錬所の移転である。貞剛の発想は、煙害は人を害す、人を害することは国家を害することである、住友はそういう企業であってはならない、という考えだ。
植林と煙害防止、今でこそ当たり前の環境改善の取り組みであるが、わが国で初めての企業による自発的かつ莫大な費用をかけての思い切った取り組みである。経営者として実に勇気ある決断であるが、なによりも自分を取り立ててくれた広瀬宰平への辞任勧告は自分の身を切るよりつらい決断であり、余程の胆力がないとできないことである。しかしこれをやらなければ、植林事業と製錬所の移転という第二、第三の策の思い切った実行はできなかったであろう。
元々経営という言葉は仏教からきていると言われている。〝経〟とは「筋道(道理)を通すこと」であり、〝営〟は、それを「行動に現す」ということである。まさに伊庭貞剛は、あるべき筋を通すべく、行動に移したと言え、それに迷いはなかったと思われる。この植林事業と製錬所の四阪島移転を成し遂げた後、貞剛は有名な「事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」という言葉のとおり、わずか4年で総理事の職を辞し、58歳にして隠居生活に入ることとなる。
伊庭貞剛について知れば知るほど、彼が引退後晩年を過ごした近江石山の伊庭貞剛の別邸「活機園」を訪問してみたいという思いが沸々と募り、本年6月、和館改修中のところ無理を申し上げ見学させていただいた。門から邸宅までの間の小道を覆う松や杉や楓の新緑の瑞々しさにまず心を打たれたが、これらの木々は貞剛自ら手植えされ、また極力手を入れずに自然のままに任せたものだという。この道を歩く間に心を静め、俗世間を忘れるという趣向であるが、禅ではこれを「経行(きんひん)」という。動中の禅とも言われ歩くことに意識を集中し呼吸を整え精神を整えることであるが、この活機園は「伊庭貞剛の禅寺」とも呼ばれたとのこと、この庭園をはじめ活機園の随所に禅の精神を感じることができた。
ここでひっそりと余生を過ごすという貞剛の意に反して、「石山詣で」と言われるほど多くの人々が伊庭の意見を聞くためにここを訪れたとのことであるが、洋館においては、近江八景のうちの五景を見渡すことのできる眺望で客人をもてなした応接間や、余計な装飾を排した簡素な作りの食堂を、そして和館においては訪問者の従者や秘書が待機するために設けられた立派な和室を拝見したが、これも禅の思想からであろうか、分け隔てなく客人を誠心誠意もてなしたいという伊庭の一期一会の心が随所に体現されていた。
最後に辞去する際に玄関を見上げると、伸びやかな一本の横線が書かれた大きな額が掲げてある。右端に縦書きで小さく「天下」とあり、「天下一」ということだそうだが、これは京都鹿王院の義堂昌碩の書であり、その直弟子である峩山から貞剛に受け継がれたものであろう。活機園創設より百十余年、この一本の線の下を通って数多くの訪問客が出入りしてきたわけであるが、この一本の線をどう読むか、まさに禅の公案の如しである。
江上剛氏の著作と活機園訪問で伊庭貞剛と禅のつながりに興味を覚え、一文を草した次第である。史実の確認などでご指導いただいた住友史料館の末岡照啓副館長と活機園を丁寧にご案内いただいた奥田髙広支配人に御礼申し上げる。
(住友生命保険相互会社特別名誉顧問)
住友史料叢書「月報」34号 [2019年12月20日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。