住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 発掘調査で蘇った「鼓銅図録」の世界・・・・・・村上 隆

 住友長堀銅吹所は、1636年から1873年まで稼動したとされるが、操業の様子は「鼓銅図録」によってうかがうに過ぎなかった。実際の遺構そのものの全貌が明らかになったのは、1990年から1992年の発掘調査による。

 考古学の発掘現場は、色彩的には墨絵の世界に近いといってよい。出土する遺物の表面は土と同化し、本来纏っていた煌びやかな色彩は、ことごとく失われている場合がほとんどである。銅吹所の発掘現場も例外ではない。炉跡などが予想を上回る複雑さで重層する遺構群とともに、出土する遺物もほとんど土色を呈していたが、さすが銅吹所の跡地だけに緑青サビに覆われた遺物が多いことが特徴的であった。

 1992年1月に住友銅吹所跡銅精錬関係遺物分析検討委員会が発足し、私もその一員として参画した。委員会は、1993年12月まで計8回開催された。私の眼を引いたのは、輸出用の棹銅そのものに近い形状をした遺物であった。銅インゴットとみられる塊は計70点出土していたが、小型棒状の不良品のようなものが多く、棹銅は数点と少ない。また、大型の丁銅が1点出土していた。委員会では、対象資料ごとに分析箇所、分析方法などを検討した。文化財の調査・研究では、分析に際し、資料の一部の採取や、フレッシュな面を出すことは行わず、非破壊的に行うことを優先させるのが一般的である。しかし、近世の銅精錬の技術を把握するためには、しっかりした分析値が必要であり、そのためには十分な試料採取は欠かせない。かくして、出土した棹銅などに対しても、十分な量のサンプリングを実施する基本方針が打ち出された。当時としてはたいへんな英断であった。緑青サビの下から今鋳込んだばかりの銅のように輝く赤桃色の地金が顔を見せたとき、モノトーンの発掘現場に鮮烈な色彩が放たれた。まさに見事に彩色された木版刷りの「鼓銅図録」に描かれた江戸時代の世界が現実となって蘇った感があった。

 分析は、住友金属鉱山㈱別子事業所分析センターにおいて、ICP (誘導結合プラズマ)やEPMA(電子線微小部分析)を中心に実施された。銅の分析値は、出土した棹銅に関しては平均98.54%を示した。伝世する棹銅に対して1987年に行われた分析値は99.29%であり、ともに高度な技術で安定して高純度の銅が供給されていたことが実証された。銀は0.02%程度と低いが、鉛が平均0.35%も含まれることが注目された。鉛の含有量が0.002%程度の低レベルが達成されるには、明治時代の反射炉鋳造製のKS銅の開発まで待たなくてはならないこともわかった。

 この調査の一環として、伝世する棹銅の赤色表面の分析を行う機会を得た。京都の住友史料館に保管されている赤い色の残る棹銅や、別子銅山記念館の丸銅などを一時借用し、赤い色の正体を調査した。もちろん、分析はまったくサンプリングを行わない非破壊的な手法によった。X線回折により、表面に銅の酸化物である亜酸化銅(Cu2O)が薄く形成されていることがわかった。そして、この酸化層の厚みがわずかに2~3ミクロンであることをつかんだ。これは、表面生成層と銅地金との界面との光の反射による干渉作用を用いたピークバレー法によった。赤い表面を顕微鏡で覗くと、銅の結晶粒が綺麗に透けて見えた。まるで、赤いフィルター越しに銅の表面を見る思いであった。

 棹銅の赤は、溶けた銅を湯の中に鋳込むという、一般的な金属の持つイメージとは程遠い方法で達成された。いかにも日本的といえる方法で得られた棹銅の赤い色は、外国人を魅了した。銅の地金に付加価値を持たせた赤い色は、「銅の国」、日本の象徴といってよいだろう。

 長堀銅吹所は、明治維新後にその機能が別子に移されて、そしてやがてすっかり忘却された。発掘調査によって見事に蘇った遺跡が、これ程豊富な情報をもたらすとは誰しも想像していなかったに違いない。長堀のあとを受けて、1869年から立川精銅場が銅吹所として操業したが、その期間は短かった。今はすっかり更地になっている跡地は、その後大きな攪乱もされぬまま、近代化への過渡期の姿をそのまま土中にパックした状態にある。もし立川精銅場跡の発掘調査を行えば長堀銅吹所跡の調査同様、大きな成果がもたらされることだろう。別子銅山遺跡を近代化遺産・産業遺産として位置づける上でも、たいへん重要な存在となると確信する。

(京都国立博物館保存修理指導室長・石見銀山資料館名誉館長)
住友史料叢書「月報」23号 [2008年12月15日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。