今から20年前の平成2年(1990)5月、大阪市中央区島之内1丁目の北東隅の街区内で発掘調査が始まった。旧町名が長堀南側1丁目あるいは長堀茂左衛門町、その後、鰻谷東之町と呼ばれる一角にあるこの街区には、江戸時代の寛永13年(1636)から明治9年(1876)まで泉屋住友家が操業する銅吹所があった。
大阪では昭和60年(1985)頃から大坂城跡や大坂城下町跡などの近世遺跡の発掘調査を行っていたが、この地の発掘調査は非常に難しいものになるだろうと着手前から考えられた。それはこの場所が銅吹所という銅の精錬所跡であり、考古学だけでは到底判断できない施設の跡が埋没していると予測されたからである。そのため、考古学や文献史学だけでなく鉱業史・産業技術史・建築史の研究者による調査専門委員会を設置し、調査の指導を仰ぐことになった。この調査の後半から担当者の一人として筆者も参加する機会を得たので、調査で得られたさまざまな知見による近世考古学の成果を書き記すことにする。
発掘調査で発見された精錬炉跡は、享保9年(1724)に大坂市中の大半を焼き尽くした火災である妙知焼以前に属するものが多かった。それらは地面に直接築かれていたが、妙知焼以降には地盤を改良した穴の上に炉を築くなど、精錬炉の保温や除湿のために新しい構築技術を採用していた。また、敷地東部の精錬炉跡の配置は、精錬工程に沿った合理的な配置を示していることも判明した。住友家の住宅が建っていた敷地西部でも精錬炉跡が見つかったが、それらは住友家が敷地全域を購入する以前に別の銅吹屋が操業していた炉跡であった。敷地の北を流れる長堀川に面する水運の利便と、江戸初期には大坂の町外れに位置していたことでこの付近に銅吹所が集まったのであろう。
敷地西部では店舗と住居の礎石群や蔵の基礎、地下式の穴蔵が見つかった。礎石群は火災による焼土層の上に据えられており、妙知焼の後に再建された建物と判明した。
住友家の繁栄を示すのが地下式の穴蔵である。この穴蔵は妙知焼の後に再建された建物と同時に築かれたもので、内部の床と壁には凝灰岩の切石を用い、床石の下全面には花崗岩を三段に重ねた基礎が設えられていた。内部の面積は完存していなかったため推定にしかならないが、南北2.4メートル、東西3.8メートル程度となり、9.12平方メートルおよそ6畳程度になる。この穴蔵は勘定場と呼ばれた部屋の地下に造られており、その部屋には手代の主だったものが就寝していたという。この穴蔵は銅の精錬工程で生じた銀や財産のほか住友家にとって重要な書類などを収めていたのであろうが、その管理は徹底していたと推察できる。
木造家屋しかなかった江戸時代の都市は常に火災の危険にさらされていた。大阪市内を発掘すると、江戸時代の町屋の跡では火災による焼土層が幾重にも堆積している。火災のたびに建物が再建されているが、17世紀末から18世紀前半頃を境に、穴蔵の建築資材や蔵の基礎に石材が多用されるようになる。先の穴蔵の凝灰岩は兵庫県の竜山石であった。蔵も礎石を等間隔に並べたものから、一抱えもある石を蔵の外周壁に沿って敷き詰めた基礎に変化する。防火のために蔵の壁を厚くしたことで建物の重量が増し、それを支える頑丈な基礎を構築する必要が生じたと考える。住友家も石列の基礎を持つ蔵を建設していた。
石造りの穴蔵も頑丈な基礎の蔵の発見例も18世紀になると多くなる。建築資材として石を多用したり壁を厚くすることで建築費用も多額になっただろうが、大坂町人は自らの財産を火災から守るための投資を惜しんではいなかったのである。
出土遺物としては各種の精錬関係資料のほか、妙知焼で被災した陶磁器がある。それらはこれまで国内での出土例が少なかった中国清朝の青花磁器や肥前の色絵磁器など上質の陶磁器で、住友家を訪問する幕府役人やオランダ商館長の接待に供されたものと推定された。
ここでの発掘調査は当初の予測通り困難を極めた。発掘調査は地層を正確に把握することが最も重要である。精錬炉跡は幾つも重なって構築と廃絶を繰返していたが、それぞれの炉が築かれた当時の地表面の広がりを明らかにしなければならなかった。反面、住友銅吹所に係わるさまざまな文献史料や絵図が存在していたことで、調査の進行とリアルタイムで遺構の性格が把握できた。ただ、残された記録と整合させるように発掘していくのは非常に難しい。絵図にあるようには発見されないことが多いからである。また、精錬炉の構造も文献史料と比較しながらそれぞれの精錬炉を特定していかなければならなかった。調査当初から携わっていた主担当者はその作業に最大の努力を払った。その努力があったからこそ銅吹所跡の全貌を報告書として結実できたのである。
住友銅吹所跡での発掘調査は銅吹所の構造や近世の銅精錬技術の高さを明らかにするだけでなく、近世都市の町屋の構造や、穴蔵・排水施設など町に必要なインフラ施設の変遷など、近世考古学に多くの知見を提供することになった。近世考古学と近世文献史学や建築史学など他分野との共同研究を行うことで都市構造の復元もさらに精度が高まり、近世社会の復元に非常に有効であることを教えてくれた発掘調査であった。
(大阪城天守閣館長)
住友史料叢書「月報」25号 [2010年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。