「上野恩賜公園」は、上野駅と鴬谷駅、日暮里駅、根津駅が囲む上野台地に位置し、不忍池を含む約53万平方メートルの豊かな自然に育まれた公園である。昔からお花見や西郷さんの銅像、近くのアメ横などで人々に親しまれて懐かしさもあるところだ。
明治6年(1873)にオランダの医師ボードワン博士が医療施設建設のために視察に訪れた際、病院よりも公園にするべきとして日本で最初の公園になったところでもある。明治10年には、世界の工業や文化などを紹介する「内国勧業博覧会」が開催され、当時の最先端の技術が集められた。今も残る写真や錦絵には、公園のなかや不忍池周辺にさまざまなパビリオンが建ち並び、飛行機やジェットコースターやロープウェイなど当時の最先端のものを一目見ようと群がる人々が賑わいを見せている様子が描かれている。その後、今日の上野公園を象徴する、東京国立博物館、国立科学博物館、東京文化財研究所、国立西洋美術館、東京文化会館、東京都美術館、東京都恩賜上野動物園、日本学士院、日本芸術院、上野の森美術館、国立近現代建築資料館、東京藝術大学等が集まり、文化の杜と呼ぶに相応しく、学術機関20以上が集う。寛永寺も含めれば世界でも稀な、日本有数の文化資源の宝庫といえよう。
今年は、上野動物園では、パンダの赤ちゃん誕生とネーミングの話題で盛り上がりを見せたが、昨年は、ル・コルビジェの設計した国立西洋美術館が「世界文化遺産」に認定される等、日本中が沸いたのは記憶に新しい。上野公園に点在する建築はどれも著名な建築家によって設計された素晴しい建造物ばかりで、ここが建築の博物館でもあることは、公園全体や周辺地域も含めて文化遺産と称しうる可能性を示している。
「文化の杜」で唯一美術と音楽のある教育研究機関として東京藝術大学がある。最近は、「日本の秘境」と言われている大学だが、明治20年に東京藝術大学の前身である東京美術学校が創立されて以来130年に渉り日本の芸術の発展の礎を築いて来た。
明治期には、近代産業の発展と欧米化が進むなかで、初代校長の岡倉天心が住友家と出会うことで、いち早く産業と芸術を結びつけた新しい事業を展開していった。住友家の第13代住友吉左衞門(友忠)と初代総理人の広瀬宰平は、岡倉天心とともに産業と美術を結びつけた依託事業を展開し、日本の伝統美術工芸の保護と日本文化の素晴らしさを世界に向けて発信したのである。
皇居にある楠木正成騎馬像は、別子銅山開坑200年記念事業として住友家から宮内庁に献納するために制作されたものである。原型制作は、主任として木彫科教授の高村光雲が、鋳造は鋳金科助教授の岡崎雪聲(せつせい)が担当した。住友の別子銅山から産出する国産の銅で鋳造することに大きな意味があった。木彫制作開始から4年後に木彫原型は完成し、明治29年に鋳造が開始された。その後、明治33年に現在の皇居前二重橋広場に高さ四メートルの台座の上にブロンズになった騎馬像が8メートルの高さで建立されたのである。
特筆されることは、この様な全体重量6.7トンを支えきる大型の騎馬像制作について構造的な問題に関する知識やヨーロッパ的な技法鋳造の経験がまるでなかったことであり、西洋の蝋型鋳造法(粘土で原型を作り石膏像とし、蝋型に置換えて鋳造する)がないなかで日本の技術の総力を上げて立ち向かったのである。高村光雲は原型として粘土ではなく木を素材とし、日本古来の寄せ木造りで原型は制作された。材料は全て檜材を用いたため作品はそれ自体これまでにない出来となって、世間でも評判になっていたようだ。明治26年に原型木彫が完成し皇居の宮城まで御天覧いただくために美術学校庭で組立て練習をして皇居まで運んだという。それらは「高村光雲懐古談」に記述されている。
前述で記したように鋳造においても日本技術によって騎馬像を完成させたことは大変なことである。真土型(まねがた)鋳造法は、木型原型を草等の繊維の入った粘土で型取りし鋳型をつくり、型を焼いて固め温かいうちに溶けた銅合金を流し込んで鋳造する方法で作られ、完成した像は部品を組立てた時の合わせ目も確認できないほどの仕上がりであった。
本来、ブロンズは原型があってできるものでオリジナルは原型に存在する。もし重要文化財となるのであれば原型こそがふさわしいと考えられるが、しかし騎馬像の原型となった木彫像はほとんど残っていないこととブロンズとなった騎馬像が世界的にも稀な技術で完成していることは歴史的にも評価してよいだろう。楠木正成騎馬像については頭部が住友史料館に所蔵されているのみである。騎馬像全体の原型は大き過ぎて保存が困難だったと推測する。
また東京藝術大学には、この事業を推進した人物の作品として広瀬宰平像(光雲作木彫)や当時の総理大臣であった松方正義像(光雲作木彫)等があり大学美術館の収蔵品として保管されている。なかでも広瀬宰平像は、銅像として別子銅山のある新居浜市にあったものが戦争で資材として供出され、しばらく台座のみが残っていたのである。広瀬宰平の末裔である髙木康江様の申し出を受けた新居浜市からの依頼があり、東京藝術大学の受託研究として彫刻科と鋳金科によって原型をもとに再現されたのである。鋳造は別子銅山の銅が一部材料として用いられ、古来の真土型鋳造技法で行われた。現在は広瀬歴史記念館の中庭に遠方を臨む姿で建立されている。
岡倉天心は、高村光雲らとともに高さ4メートルを超える構造的にも大変難しい大型の騎馬像を日本古来の木彫と真土型鋳造技法で制作し、日本の芸術文化と技術の素晴しさを世界に誇れるものにしたのである。
上野文化の杜は、どこに焦点をあてても日本人の精神が紡ぎ出す文化の歴史を数多く垣間みることができるところなのだ。
(東京藝術大学教授)
住友史料叢書「月報」32号 [2017年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。