「奇跡の繁栄」と世界中から羨望の目で見られ、時には「勝ちすぎ」と批判された我が国も「衰退」と言われてから既に久しい。1968年にはGNPで世界第2位となり、経済大国として世界にその存在を示すことが出来た。当時の日本のビジネスマンは、誰もが世界の注目を肌で感じたものである。今や新興国の台頭には目覚ましいものがあり、世界の変化は激しく急で、そのスピードについて行けない日本は、明らかに世界の政治・経済の舞台から置き去りにされつつある。「国難」、「第三の開国」などと言葉のみが飛び交うが、ここにいたっても実行がともなわないから一段と将来が心配になる。
振り返ってみれば、「第一の開国」と言われる明治維新は大変だったと思う。国内には近代化に反対する既存の特権階級という大きな問題を抱えつつ、外では列強に伍して国のすべてを変えるという大事業に取り組んだのであるから、今、日本が当面する構造改革よりも難事業だったに違いない。しかし若いリーダー達の命を賭した活躍のおかげで、日本は国を誤らなかった。今盛んなリーダー論議を聞きながら、私はいつも明治維新を思い、そして住友の先人を思う。
明治維新は、住友にとっても難問が続発の時代であった。しかし、幸いにも広瀬宰平、伊庭貞剛という偉大なリーダーの英断と実行力で、難局を乗り切ることが出来た。
広瀬は、まず情熱を傾けた交渉で幕府による別子銅山の接収を阻止することに成功した。次いでフランス人技師の指導の下、別子銅山の近代化に取り組み、「問わんと欲す国家経済のこと」、「数千万人の人々と利を共にせん」を旨とし、経済によって国家・社会の発展に寄与せんと尽力したのである。誠に気宇壮大、経済人に勇気を与える言葉である。
伊庭は明治維新の政府の方針に不足を感じ、広瀬の薦めで裁判官を辞して住友に入った。折から別子銅山は近代化の成果で業績は順調に伸びていたものの、亜硫酸ガスの発生で公害が大きな問題になりつつあった。やがて伊庭が公害問題解決の使命を帯びて別子支配人として派遣されることになる。鉱山用のために濫伐された山林を元の緑に戻し、公害問題を根本的に解決することを決意した伊庭は、製錬所を四阪島に移設するという大事業を計画実行した。製錬所のみならず従業員、関係者揃っての移転であり、恐らく社運を賭けての大事業だったに違いない。当然ながら先輩や社内には反対が多かったようだが、伊庭は彼らを説得しこれを実行した。今でこそ社会貢献は十分認識されているが、100年以上も前に断行したその英断と実行力には驚くほかない。
伊庭の言葉、「事業の進歩発展に最も害をなすものは青年の過ちではなく老人の跋扈である」は有名であるが、その信念の通り58歳という若さで引退した。また、環境によって経験の有用度も変わるのであるから「あまり経験に重きを置きすぎないように」、「青年の過ちに対しては雅量を持つように」など、青年に期待する言葉を残している。
しばしば「住友は石橋を叩いても渡らない」と言われるが、私は逆であると思っている。伊庭が座右の銘とした「君子財を愛す。之を取るに道あり」という句や、彼が残した言葉の数々は、チャレンジ精神、進取の気性が大事であることを教えているものと私は理解している。
我が国衰退の原因に日本人の内向き志向があげられ、若者の外国忌避などが言われる今、改めて住友先人の教えに感銘を受ける。
(住友商事株式会社名誉顧問)
住友史料叢書「月報」26号 [2011年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。