愛媛県新居浜市に残る別子銅山支配人、住友家総理代人を務めた広瀬宰平(1828~1914)の旧居宅(以下「旧広瀬家住宅」という)が国の重要文化財に指定されたのは、平成15年5月のことである。筆者が専門とする建築歴史の分野では、旧広瀬家住宅は、「近代和風建築」というジャンルに分類されている。
近代和風建築とは、どのような建築をいうのだろうか。その説明のためには、明治期以降に建設されたいわゆる近代の建築(一部幕末期の建築を含む、以下「近代建築」という)の文化財としての歴史を少々紐解いてみる必要がある。
近代建築を国が文化財として扱うようになったのは、意外に古く昭和8年1月のことで、大浦天主堂(長崎県長崎市)が、文化財保護法の前身にあたる国宝保存法によって国宝に指定されている。大浦天主堂は、元治元年(1864)に建てられ、明治12年(1879)に大規模な改造が行われ、ほぼ現在の姿となった建築で、江戸時代に建設された教会堂建築という希少性が評価されているので、近代建築として文化財に評価されたかどうかは微妙なところである。
その意味では、近代建築として初めて評価されたのは、昭和10年5月に国宝に指定された尾山神社神門(石川県金沢市、現在は重要文化財)で、この門は大工棟梁津田吉之助が明治8年(1875)に建てた「擬洋風建築」として知られている。擬洋風建築は、近代の初頭に、日本の大工棟梁たちが欧米の建築のデザインを真似てつくった建築のことで、大工棟梁による建築のため本物の欧米の建築とは少々異なるデザインを持つことに、その名の由来がある。
その後、しばらく近代建築の文化財指定は行われなかったが、文化財保護法の下で、昭和31年6月に泉布観、旧造幣寮鋳造所正面玄関(ともに大阪府大阪市)が重要文化財に指定され、次いで昭和36年3月に旧開智学校校舎(長野県松本市)、宝山寺獅子閣(奈良県生駒市)が指定されると、それ以後、近代建築は次々に指定されていった。これら初期に文化財に指定された近代建築は、擬洋風建築を主とする欧米建築と類似するデザインを持つ建築、すなわち「洋風建築」と総称される建築であった。
なぜ、洋風建築が文化財として評価されたのかは、次のような理由による。
幕末期のペリー来航等を契機に、日本には欧米各国からさまざまなものがもたらされたが、建築の分野も例外ではなかった。近代建築を文化財として評価するにあたって、欧米からもたらされた様式や技術を早期に取り入れた建築を、それ以前の建築とは異なるものとして評価することは、最も判り易い方法のひとつであった。なかでも「洋風」のデザインは、それ以前の建築との違いを示す指標として最適だったのである。
一方、洋風建築の文化財指定がある程度進んでくると、洋風のデザインを持たない近代建築、すなわち近世以前からのデザインを継承した近代建築についても文化財として評価すべきだという声が、専門家の間で高まっていった。それとともに使われるようになったのが「近代和風建築」という語で、その語には近代の洋風建築と対比する意識が強く働いているといって良い。
近代の洋風建築の文化財指定については、デザインがその評価対象となっていることは前述の通りだが、では近代和風建築はというと、和風のデザインが評価されているわけではない。むしろ、デザイン以外の部分が評価の対象となっている。旧広瀬家住宅では、住友家関係の建築を多数手がけた大工棟梁八木甚兵衛(第2代)の代表作という点が注目されている。また、洋風のデザインを採用しない一方で、暖炉・洋風便器・避雷針といった実用的・機能的な部分に近代ならではの設備をいち早く使用している点が、家の施主である実業家広瀬宰平の性格を表していると考えられる点も評価の対象となっている。したがって、近代和風建築という語は、文化財のデザインを示す語としては便利だが、その評価を表す上では、必ずしも適当な語ではないと、筆者は考えている。
旧広瀬家住宅についていえば、前記した建築上の価値に加え、そもそも別子銅山の経営や歴史の上で重要な役割を果たした広瀬宰平という人物の家、すなわち、日本の歴史上の重要な人物の家として文化財に評価されていても不思議ではないはずである。そうした歴史上の人物や事件に関わる評価による文化財は、我が国の文化財保護行政では「史跡」という範疇に属すことになっている。ところが、史跡の分野では、こと近代に関していえば、文化財の指定にあたって、歴史上の人物や事件に対する評価を積極的に行おうという状況には、残念ながらなっていない。
冒頭に述べた通り、旧広瀬家住宅は国の重要文化財に指定されており、それは史跡ではなく有形文化財の建造物としての文化財指定である。建物を文化財にするにあたって、評価の違いによって「史跡」「有形文化財」に文化財の分野を分けることは、世界的にみると非常に特殊な事柄なのだが、その説明を加えるには紙数が足りないので、このあたりで擱筆することにしたい。
(工学院大学建築学部教授、元文化庁文化財調査官)
住友史料叢書「月報」26号 [2011年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。