今流行のグローバル・ヒストリーにおいて、「国際商品」と呼ばれるモノがある。金銀銅はもちろんのこと、砂糖、茶、コーヒー、胡椒、生糸、更紗、さらには奴隷も含めて良いだろう。遠く海を越えて運ばれ、高い利益を生む。これらが、世界の一体化と近代をもたらしたとされる。
それでは、私が専門とする江戸時代の日本は、どのような国際商品を輸出していたのか。はっきり言って、金銀銅に尽きる。中期以降いりこ、ふかひれなどの海産物が中国向けに輸出されるようになり日本人の初めての外貨獲得に貢献したことは、恐らくその後の日本史の方向性を決めたと愚考しているが、東シナ海を渡っただけでは国際商品とは呼ばないのが(欧米に生まれたグローバル・ヒストリーの)普通である。
しかし、オランダ東インド会社の長崎商館が日本の物産を何も持ち出さなかったのかと言うと、そうではない。有名なところでは、陶磁器、漆器があるが、それだけでなく、和紙、小袖、米、日本茶、酒、奈良漬、味噌、梅干し、醤油など、実にさまざまなものを持ち出している。しかし、これらは大量販売を見込んだものではない。陶磁器、漆器、小袖は、おもにアジアやヨーロッパの王侯への贈答用に珍重された。また、和紙や和食材は、おもに会社や会社職員の 自家消費用として持ち出された。和食材の消費者は、おもに日本商館経験者に限られたようである。
日本からのそれらの輸出品はなぜ国際商品になれなかったのか。保存性の善し悪しに帰することはできないと思う。茶も保存が難しく、中国の広州(カントン)で仕入れた茶をいかに早くヨーロッパに届けるか、各国の商人が競い合ったものである。いわゆる「鎖国」が原因とも言えない。それでは、銅の輸出を説明できない。
私はむしろ「国際商品」という評価そのものが、後知恵なのではないかと思う。新しい土地に来て珍しい物産に出遭った時、人はそれらを故郷に運ぼうと考える。現地で食べておいしかったものなら、なおさら。我々が海外のお土産を持ち帰る感覚と言えるだろう。このとき、目を引かなかったものは持ち帰らないので、やはり良いモノが運び出されることになる。いわば国際商品の候補生である。しかし、それらが、「売れる」かどうかは、持ち帰り先の市場による。 あるいは、どれだけその商品に適応性があるか。
金銀銅は好きな形に加工されることによって世界どこでも通用する。中国に生まれた茶は、そのヴァリエーションの範囲を超えた「紅茶」というジャンルを生み出し、さらに砂糖やミルクを入れて飲む(本家から見れば)ゲテモノに変化して、ヨーロッパに根付いていった。
つまり、一つの国際商品が生み出されるまでには、つねにそうはなれなかった多くのモノたちの死屍累々があったのではないだろうか。最初に運んだ時点では、国際商品になれるかなれないか、当たるも八卦、なのである。
江戸時代の日蘭貿易は、決して徳川政権だけではなくオランダ側によっても厳しく管理されていた。そのため、市場原理が貫徹しにくく、いわゆる経済史の理屈で語りにくい。しかし、おそらくその管理のせいで、細々したモノに関するものも含めて史料だけは豊富にある。
この状態で何をどう語るか。従来は、オランダ東インド会社の成功体験か、日本人の西洋文化輸入の物語として語られてきた。それはそれでよいのだが、もう一つの視点として、「国際商品」の候補生から国際商品が勝ち残っていく過程、言い換えれば、「国際商品」未満に終わったモノたちの見本市として、語れないだろうか。
それは、輸出品だけではない。1666年オランダ人は日本にダイヤモンドを輸入したのに、少しも喜ばれなかったらしい。ヨーロッパほとんど唯一の特産品であった毛織物も、油分を含むことによる耐水性から日本でも緋毛氈や火事装束として珍重されたとはいえ、日本人の衣生活を左右するほどにはならなかった。それが達成されるのは、明治になってから、おそらくは洋装の軍隊が出現し、洋服の需要が飛躍的に伸び、かつそれが政府御用と言う形で安定的に確保されるようになってからなのである。
〔参考文献〕松方冬子、フレデリック・クレインス編『日蘭関係史をよみとく』(臨川書店、2015年)。山脇悌二郎『長崎のオランダ商館』(中公新書、1980年)
(東京大学史料編纂所准教授)
住友史料叢書「月報」30号 [2015年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。