1989年初頭に昭和天皇が崩御され平成の時代に入った。6月の株主総会で常務取締役に任ぜられ、同時に米国出向を命ぜられた。 若い頃にカリフォルニア大学への留学、その後、ベル電話研究所に滞在の経験もあり、半ばふるさとに帰るような心境であった。ニューヨーク州ロング・アイランドの現地法人に籍を置き、その社長として米国全土とメキシコの現地法人を統括する立場に立つこととなった。
単身であれば身軽で良かったが、三男が小学生の時に「潰瘍性大腸炎」で近くの小児病院に入退院を繰り返しており、帯同せざるを得なかった。しかし、着任後直ちにロング・アイランドの医科大学病院で受診させたところ、「米国では潰瘍性大腸炎は重病の範疇には入らず、入院の必要がない」と医師に説得された。私はこの日米間の見解の相異にびっくりしたが、同時に、我が子を米国に連れて来て良かったとの思いを新たにした。
当時、米国内ではPBXが進化し、CPE(Customer Premises Equipment)装置ビジネスとして可成の量的ウェイトを占めていた。この領域は販売店経由での取引が多く競合が激しいため、とかく訴訟合戦の様相を呈していた。法務部門の責任者は、「Preventive Legal」と称し、訴訟を予防回避するための販売店教育に重点を置いていた。私も在任中、調停の場で証言する立場に立った事も多かったが、振り返って見れば懐かしくも貴重な経験をさせてくれたものであると感謝をしている。
このCPE分野も、EPBXといわれる単体機器の時代を越え、まさに多様なサービスを可能にするシステム・コンセプトの時代に入っており、頭脳を集めた製品コンセプトが勝敗を制する状況になっていた。駐在歴が長く米国CPE事業の全容を把握していたPBX部門の責任者に、東京側の事業部門を説得して開発に当たってもらった。
話は前後するが、CPE事業統括責任者が引退し、後任の人選に苦慮する一方で売上高も減少し、いよいよリストラを決心せざるを得ない状況に立ちいたった。リストラ計画を発表した途端に、東京本社からの厳しい意見の類はぴたりと影を潜めた。本社から見れば、恐ろしいことに巻き込まれたくなかったのであろうか。お陰で自己責任でやり易くなり、現地法人プレジデント&CEOの立場で再生を画した思い切った施策を断行できた。事業領域縮減、新領域増大の事業変革を実行するとともに、3年間で全社約1,000人のスリム化を実現した。また、CPE拠点をロング・アイランドからダラスに移行したことも結果的には効果的リストラを結実させ、業績も回復方向に転移した。
1991年に湾岸戦争が勃発、同年クーデターでソ連が崩壊し、ビジネス上ではいわれなき円高に苦しめられ、1992年にはクリントンがブッシュに圧勝するなどの事象が起きた。
この頃、日米貿易摩擦が尖鋭化する中で、せめて科学技術の面から摩擦を回避解消できないかとの発想で、日本の「科学技術と経済の会」が米国SIPI(Science Institute for Public Information)と連携し、米国内有数の大学・アカデミー・メディアなど17か所を歴訪する構想を立てた。業界各社は本社幹部がかけつけ対応したが、当社は現地法人での対応が求められたため、私自身の見解を論文として執筆する事にした。これを種にしながら一週間かけて講演して廻ったが、努力の甲斐あり、それなりの相互理解を得られたことは貴重な体験だった。母校のUCバークレーでは「CEOフォーラム」を組んで、私の講演に対し大勢の教授陣が論陣を闘わせる内容で、特にのちのクリントン政権の経済諮問委員長を務めたローラ・タイソン女史から「私が半導体摩擦の本を書いたのよ!」と詰め寄られたことを懐かしく思い出す。貿易摩擦は不公正な要因により生じたものでなく、日本企業が革新的企業文化創造の活動展開の結果、正々堂々たる競争の中で勝ち残っているという実態も充分理解されたように思われた。
その後、1993年夏に帰国命令を受け、8月末には後任に託し、妻とともに帰任した。
カルチャーの相違に対する理解を深め、尊重すること、互いの良いところをどう融合し、新しいより革新的なカルチャーを生み出せるかということが、グローバル経営にとって必要なことを認識させられた。
最後に、冒頭に述べた三男もお陰様で病気とはほぼ無縁で、アメリカ文化の香りを満喫した。私が帰任後も現地に留まり、大学院を経て帰国、現在は鉄道会社の技術者・管理者として元気に働いている。
(日本電気株式会社 名誉顧問)
住友史料叢書「月報」28号 [2013年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。