ここ3年ほど勤務先の大学のフィールドワークという授業で、大学院と学部2年のゼミ生たちとともに、関東の河岸を歩いている。川や運河の港は古代以来存在したが、それを「河岸」と呼ぶようになったのは近世初め頃のことだという。オランダなどを旅すると運河や川を利用した水運が今でも現役であることを実感させられるが、近世の日本にも同じような光景が展開していた。その中でも関東平野は舟運がよく発達した地域で、江戸を中心に、河川・運河による舟運と、街道・脇往還などによる陸運とで有機的に構成された人・モノ・情報の流通ネットワークは、いわゆる江戸地廻り経済圏のインフラとして機能していた。しかし、近代になると、明治政府の舟運より治水を重視する政策の転換もあって、内陸部の物資や人の輸送は鉄道やトラック・バスなどに代わられた。河岸の賑わいも大小さまざまな舟たちも姿を消し、その代わりに巨大な堤防や護岸が河川の風景となった。つまり、河岸の賑わいや河川をゆったりと帆走する船の姿は、日本においては、きわめて近世的な景観だった。
初年度は新河岸(しんがし)川の川越市域、昨年度は利根川と江戸川の分岐点にある関宿と境町、そして今年度は上利根川地域で最大規模の河岸のあった倉賀野(現高崎市倉賀野)をフィールドとした。倉賀野河岸は利根川支流の烏川にあるのだが、調査を進めるにつれて、高崎城下をはじめ利根川の西岸地域から信州・越後までを後背地に持ち、その広大な地域の領主の年貢米や種々の商品の集散地であることが、この河岸の賑わいのもとであることが解った。また、倉賀野よりすこし下流の、利根川本流と支流の広瀬川が合流する地点に、この地域で2番目の規模を持つ平塚(ひらづか)河岸(現伊勢崎市境平塚)があり、この河岸は足尾銅山の銅の積み出し港として設定されたことも解った。
足尾銅山の開発は1610年と伝えるが、御用山に指定されたのが1648年で、その翌年に、足尾・平塚間14里の銅山(銅)街道が整備された。その間を流れる渡良瀬川は急流や難所が多く、舟運には適さなかったらしい。足尾の銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々・大原を通って平塚で船積みされて、利根川・江戸川を通って、浅草御用蔵に納められた。上記5か村の荷継場には御用銅問屋が設定され、それぞれに銅蔵が建てられた。現在も花輪の高草木(たかくさき)家には銅蔵が残されている。銅は、いわゆる「御用銅」として、沿道村々の役負担で運ばれ、船による運送も、河岸問屋や舟持ちたちの役負担によったと推定される。
近世における足尾銅山の最盛期は17世紀後半で、御用銅以外の余剰が長崎での輸出に充てられた(長崎廻銅)。幕府は1685年以来急増した中国船の来航に対応して、貿易額に定額を設定する、いわゆる定高仕法を開始するが、ほどなく貿易の欲求に対応するため銅の輸出を条件に定髙外の貿易を許可する(銅代物替、1695年)。しかし、元禄期に入ると足尾をはじめ全国の銅生産は急速に減少して、長崎廻銅もままならない状態になり、長崎貿易と都市長崎自体の衰退を招いた。その危機的状態を打開するために打ち出されたのが新井白石の正徳新例(1715年)だったのだが、ここで注目したいのは、銅生産が急落する元禄期に、足尾銅積み出しの河岸が平塚から前島に、銅問屋も北爪家から亀岡村の髙木家に変ったことだ。その理由はまだ明らかにされていないが、御用河岸としての地位を失った後も平塚河岸はますます発展して、この地域第二の規模を維持したことははっきりしている。
その理由は、この河岸が交通の要衝にあって荷物の積み分け地点に位置し、しかも広瀬川舟運の出入り口でもあり、ここまでは大型船の航行が可能だったから、とされている。利根川を遡航してきた大型船も、平塚河岸付近で艀船(はしけぶね)に荷物を積み分けるか、一部荷物を積み替えて、本船を軽くしなければならなかった。この地の利から、前橋・伊勢崎など利根川北岸の主な町場は、平塚河岸問屋の取引圏内にあった。この条件に、御用河岸の地位を失った時期が民間の経済力が著しく上昇していた元禄期であることを勘案すると、御用河岸の権利はとりあげられたのではなく、自発的に返上したのではないか、という楽しい空想も湧いてくる。この河岸の代表的な荷積問屋北爪家の当主は、同時代に「現金掛け値なし」で名をなした三井高利と同じ類型の人だったのかもしれない。
現在足尾と大間々の間は国道122号が走り、足尾~足利間にはわたらせ渓谷鉄道が走っている。9月中旬のある日、レンタカーで122号(旧銅街道)を足尾から大間々まで走って、思いのほか交通量が多いのに驚いた。次は、時期を逸して見そびれた紅葉の代わりに、新緑の時期にでもこの鉄道に乗ってみようかと考えている。
(立教大学文学部教授)
住友史料叢書「月報」24号 [2009年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。