「武士の町大坂」という問いを立て、おもに町奉行就任者について調べて20年になる。調べてみるとやはり、日記がほしくなる。回想でもなく、伝聞でもなく、生身で体験したことを書いた日次記がいい。江戸からやってきた武士が、「天下の台所」大坂に暮らすのだから地味な記録に終わるわけがない。そんな期待をもって調査し、出会った史料を読みだしたが、史料集として出せたのは新見正路と久須美祐明の二人(清文堂史料叢書119、2010年と133、2016年)に止まる。
食通の久須美と文人の新見では、日記に出る大坂の人物と姿は異なるが、奉行としての職務には違いがない。その中で気になったことの一つは、町奉行として初入りした後に実施される市中巡見、いわば顔見世である。
大坂の三郷北組・南組・天満組の順に、先任奉行の案内で行われるが、南組の訪問先に住友がでる。難波蔵など幕府の施設や与力・同心屋敷、四天王寺・住吉大社などの社寺が多いなかで、唯一、固有名詞として出る町人である。目的は銅吹所の見学。新見日記には文政12年(1829)9月11日として、「二度目丁(町)巡見として五時、東同道にて出る、昼休み生玉南坊、帰路住友吉次郎方江立寄銅吹方見分いたす」とある。その後、座敷での茶と菓子の接待、「銅吹方次第認書」と「銅石品々一箱」の献上と続くが、「初入の節例差出由」と、それが慣例であることを注記している。
訪問するゲストが慣例と認めている一方、迎える住友家にはマニュアルがあったことが、今井典子氏によって明らかにされている(「近世住友銅吹所幕府高官応接の儀礼について」『泉屋博古館紀要』15・16・17・19、1998-2003年)。老中と城代、オランダ商館長について考察した論考であるが、町奉行の巡見は、延享元年から慶応3年の間で57回を数える。
ぜひとも原史料を見たいと思い、閲覧を申請し、新見の項を見せてもらった。「両御奉行御見分控二番」の当該部分は、9月8日、西役所からの手代の呼び出しから始まる。9日には床所書付の提出、10日には東座敷の掃除と南組惣代からの正式な連絡が来る。役割分担を決めた上で、11日の到着を待つ、という次第である。ホストならではと思わせるのは、東西町奉行の用人と並んで、銅座掛・地方・金方の与力・同心が新見に同行していることが分かる点である。新見日記にその記載はない。
さらに住友家の新見への応接は、この時が最初ではないことも分かる。「両御奉行御引遣帳一番」によると、7月24日、大坂八軒屋で新見を出迎え、翌25日朝、初入りの御目見に、友聞・友賢が西町奉行所に出勤しているのである。そこには友賢よりとして方金三百疋などの金銀が書き添えられている。新見には初入りの記事がないが、天保14年(1843)6月2日に八軒屋に着いた西町奉行久須美祐明は、4日に「町礼」を請けたと日記に記す。さらに久須美は、市中巡見を終えた14日、「町礼収納もの」を数えさせて総計134両と記している。この内に住友の礼金が入る。ここにはゲスト側の史料の妙味がある。
ホストとゲスト、双方の史料が揃うと見えてくる世界が広がる-ということであるが、住友の記録で驚いたことがある。江戸の老中の大坂巡見の件数と日時が分かるのである。寛延3年(1750)の本多正珍から文久2年(1862)の小笠原長行まで、実に14回に及ぶが、この情報、「徳川実紀」や「大阪編年史」には網羅されていない。その結果、小さな誤謬が生まれる。
相蘇一弘氏の労作『大塩平八郎書簡の研究』(清文堂出版、2003年)に載る大塩書簡の第一号は、若き大塩が弓術の師である柴田勘兵衛に宛てたものであるが、そこに兵庫・西宮へ勤番の記事と並んで「御老中御巡見」の一節がある。8月29日の日付をもつこの手紙を相蘇は、勤番の記事と「浪華御役録」の「定町廻」に大塩の名が見えることから文化14年と推定しているが、この年、老中の巡見はない。あるのは文化12年で、8月17日~20日で、老中酒井忠進が市中を巡見している。したがって文化12年(1815)に比定すべきであろう。
このような基礎的事実を確定することができるのは、ホスト側の史料の強みである。ゲストの町奉行や老中の動向を知る上で、住友家文書の史料群のもつ価値は大きい。
(兵庫県立歴史博物館長)
住友史料叢書「月報」34号 [2019年12月20日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。