住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 石門心学と住友精神・・・・・・新宮康男

 去る9月、大阪で「心学明誠舎」の会合があった。この団体は天明5年(1785)に船場の商人達により、石田梅岩の説いた商人道(石門心学)を研鑽遵守し普及することを目的として設立され、明治38年(1905)に社団法人として認可された由緒ある会である。

 わが国ではバブル経済の発生と崩壊後の社会で様々な事件が起き、企業倫理、CSR(企業の社会的責任)、企業統治の確立といったことが叫ばれて来たが、残念ながら企業不祥事が依然として頻発し、この会合の時には汚染米を良品として販売するという言語道断な事件が報じられていたので、参会者は今こそ石田梅岩の教えを普及徹底するべき時と大いに盛り上がった。

 石田梅岩は貞享2年(1685)、現在の京都府亀岡市の農家の次男として誕生、11才で京都の商家に丁稚奉公、4年後郷里に帰り農業に従事したが、23才の時、再び京都の呉服商に勤め20年間奉公した。彼は仕事に励みながら寸暇を惜しんで勉学に勤しみ、独学で神道、仏教、儒教、古典等を学び、小栗了雲師と出会って、永年の商家での経験と思索から到達した自分の考えを一層深化し、43才にして商家を辞し、享保14年(1729)自宅を無料開放して「商人道」を説き始めた。

 その後、年ごとに信奉者が増え、乞われて大阪へ出張講義を続けるようになり、延享元年(1744)没するまで、清貧に甘んじながら人としての実践倫理を平易な言葉で具体的事例に即したりしながら商家の人達と問答を重ね、書籍として上梓されたものは「都鄙問答」と「倹約斉家論」の2冊だけだった。

 梅岩の説く所は、当時、士農工商と厳然たる身分制の最下位に位置づけされ、多くの儒学者から「利のみ見て義を見ざる者」とか「営利の為に不程な渡世をする者」と非難、蔑視されていた商人に「商工は市井の臣なり。商人の売買するは天下の相(たすけ)なり」と自分の仕事にプライド、自信を持てと励ましている。しかし商人が正当な評価を得るには道徳の実践としての商人道を遵守しなければならぬと、正直、勤勉、倹約、孝行を基本とする「商人の道」を具体的に分かり易く説き続けた。梅岩の有名な言葉に「まことの商人は先も立ち、我も立つことを思うなり」があるが、要は「天下公の利益につながる商い」を常に心掛けよとの教えである。また、梅岩は倹約を旨とすべしと強調している。ただし彼の倹約とは「我ために物事を吝(しわ)くするにあらず。世界に三つ要るものを二つにてすむ様にするを倹約と云う」であり、天下社会のための倹約、極力無駄を排して良いものを安く提供するよう、創意工夫をこらすべしとの教えである。これは現代の地球環境を守る課題、省エネルギー、省資源、リサイクル推進などに通じる理念といえよう。

 私が石門心学を知ったのは社長に就任して社員に訓示をしたり、新聞雑誌のインタビューを受けるようになり、住友の事業精神だけでなく、経営に係わる先人の教えが何かないかと思案していた時、元住友本社総理事の小倉正恒氏が昭和27年に石門学会の会長に就任されていたことを知り、参考書を購入したのが始まりだった。生かじりながら梅岩の教えを読み進むと先輩から教示された住友の事業精神と心学の教えが同じ理念、哲学を有していることに驚きを感じた次第である。

 住友の事業精神というと明治24年(1891)制定の「営業ノ要旨」に示された信用を重じ確実を旨とし浮利に趨(はし)り軽進すべからずという言葉が一般に知られているが、古来伝承されている「報本反始」「自利利他公私一如」の精神が根本をなしていると私は思っている。住友精神の根源は慶安元年(1648)頃、住友家初代政友が記した「文殊院旨意書」にあるが、これは身近にいた人に宛てた商売を始めるに当たっての心得を簡潔に示した手紙であり、一般の人に知られることはなかったと思われる。

 住友の家法が整った形式で示されたのは五代家長の友昌が発布した「家法之品書」であるが、これは仕事をする上での心得を具体的に事細かに全従業員に宛てて示したものであるので、一般の人も知る機会があったと思われる。時期は享保6年(1721)で、梅岩が講席を開く8年前のことであり、「家法之品書」が梅岩の思想形成に影響したのではないか、また、住友の従業員が梅岩の講義を聴き住友精神の涵養に資したのではないかと自分勝手な想像を楽しんでいる。

 今、世界中を深刻な不況到来と脅えさせている米国に端を発する金融危機の真の原因を考えると、彼らの企業価値観、経営理念こそが反省されるべきであり、今こそ、石田梅岩の商人道を世界中で経営の指針にしてほしいと願っている。

(住友金属工業名誉顧問)
住友史料叢書「月報」23号 [2008年12月15日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。